Numberを始めとするアジアカップへの各種論評も読みましたので、僕もここで振り返ってみたいと思います。いつも長くなるので今日は短めに。
**
4位という結果でしたが、今でも内容はよかったと思っています。
チームとしてのベース、戦い方、サッカーへの向き合い方が見えたとでも言えばいいでしょうか。中盤に人数をかけてボール・ポゼッションを高め、相手がいない(少ない)ところから攻める。単純明快ですが、いたって理にかなっていると思います。常にリスクを冒す必要はないし、90分間走り続けることもできません。その中で、失点の可能性を減らし、得点の可能性を高める戦い方を6戦通じて実践できていました。これはすばらしいことだと思います。
**
おそらく日本には今後もサウジアラビア戦の3失点目のようなシーンは出てくると思います。個の力では日本はおそらく負ける場合が少なからず発生するし、90分間で1回も1対1の場面を作らせないことなどできるはずもありません。もちろん個で勝つことも非常に重要なのですが、チームとして考えたときにはなるべく個の勝負を避ける戦い方をするというのが正しいアプローチです。
結果的に失点してしまいましたが、サウジアラビア戦でどれだけ日本のディフェンスラインがピンチに陥ったでしょう?ほとんどなかったと記憶しています。それはボール・ポゼッションを高めると同時に、前線、中盤からディフェンスを惜しみない労力をかけてディフェンスをしていたからです。
**
トルシエも同じような戦い方をしていました。フラット3は賛否ありますが、中盤に5人かけてとにかく相手のボールの出所をおさえる。戸田のような献身的なプレイヤーを好んで使うところも似ています。
ただトルシエ時代は攻撃の形が見えなかった。守備と攻撃を分けるのもよくないですが、守り方に関してはフィロソフィーがあったのに攻撃に関しては個のアイデア任せだったのがトルシエのサッカーだったと思います。
**
全体論としては、とてもいいチーム作りが見えてきています。日本にあった戦術を採用し、それに見合ったプレーを見せてくれた選手たち。演繹的なデザインと帰納的なアプローチがマッチしていた好例だと思います。
**
ただやはり避けては通れないのが、個のエスプリをどう発揮するのか、ということです。ここは正直言って戦術の範疇ではありません。ヒューリスティックな部分であり、「こういうプレーをすればうまくいく(得点が取れる)可能性が高い」というモデルがあるわけでもありません。
チームとしての共通意識は戦術にあるので、それを逸脱するプレーはリスクが高いともいえます。
つまり、個のエスプリはリスクが高く、かといって得点の可能性が高まることも保証できないプレーなんだと僕は思っています。
攻撃をそこに頼らざるを得ないのは危険な考え方で、一概に「シュートを撃たない」「形にこだわっている」という批判もできないだろうというのが僕の意見です。
**
とはいえ。とはいえ、相手の脅威を与えるような怒涛の攻めを見せることも試合の中では必要だとも思っています。確かに今の日本の攻めは淡々としすぎている。
これは小説の世界ですが、故・野沢尚氏の「龍時シリーズ」では、主人公の龍時はユースの日本代表としてスペイン代表と試合したときに相手に殺されるという感覚を抱いたと表現されています。そして、相手が「殺される」と恐怖感を抱くようなサッカーをしたいと龍時自身が強く決意します。
この鬼気迫るプレー、あまりのプレッシャーで相手がミスをしてしまうようなプレーが日本には欠けているのかもしれません。
**
少なくとも、気持ちやテンションをチームとして一体化することは必要だと思います。サッカーは熱を帯びたスポーツであり、特に負けているときは熱くなる場合が多いと思いますので、やはり熱い方向にあわせる必要もあります。
そしてここで大切になるのは、熱さの中の冷静さであり、個を大切にしながら全体としての調和を図る撞着的な概念です。それを可能にするのは考えるという行為であり、結果としてポリバレントさが生まれます。
**
アジアカップでは、演繹的、帰納的な戦術アプローチが実践されていました。チームとしての組成は全体的な部分から始めるべきで、いきなりヒューリスティックな部分から始めるのは正しくありません。
そういう意味でチームとして正しい方向に進んでいますし、今後にも大いに期待できるチームだというのが、僕の総括です。
最近日記で「正しさ」という言葉をよく使っています。これは絶対的正しさという意味ではなく、ある行為に対して付加されるべきアプローチとしての正しさのことです。
行為の結果が失敗に終わったとしても、失敗という事実のみを見て判断するべきではなく、無数の選択肢の中から該当の行為を選択するに至った仮説を検証することが次へのサイクルへとつながります。
こないだプロ野球を見ていて、仮説/検証がやはり大事だと再認識したことがありましたので今日は野球を中心に記載したいと思います。
**
巨人対広島。7回くらいで、同点で巨人の攻撃。ここで巡ってきたチャンス、ワンアウト満塁で打席は二岡。ここで原監督はピンチヒッター小関を送り出します。
結果として小関は三振に倒れ、巨人はその後勝ち越されて試合に敗れました。
翌日の新聞スポーツ記事には「原監督、迷采配」の文字が。各種WEBサイトでも原監督の采配ミスがクローズアップされています。
もちろん、二岡の得点圏打率やピッチャーとの相性、小関を代打で使うことのメリットなどを記載している記事もありましたが、野球というスポーツの特性を考えた場合、この采配ミスという文句はどうなのでしょうか?結果として小関がヒットを打っていたら名采配になるのでしょうか?
**
原監督の真意は僕には分かりません。小関を送り出したことに何のフィロソフィーもなかったのであれば、それは批判されて然るべきと思いますが、監督としてそんなことはなかったはずです。
野球には打率という分かりやすい指標がありますが、判断基準が打率だけではないことは誰でも分かると思います。相手ピッチャー、チャンスに強いのか、当日の体調、最近の調子、ここでほしいのはヒットなのかホームランなのかスクイズなのか、3塁や2塁には脚が速い選手がいるのか。采配には様々な基準があるはずです。
全ての状況を勘案して確率が最も高いと思われる方法を取るのがアプローチとしての正しさだと思います。ただし、どんなに確率の高い方法を取ったとしても100%の成功はありえない。プロの世界なので結果が求められますが、それよりも大事なのは全てのプレーにおいて仮説と検証のサイクルを回すことだと思います。検証の結果、自身の中に新たなデータ/情報が蓄積され、それは次回の采配に活かされることになります。結果だけを見て判断しても発展的な意味は生まれません。
采配の結果どうだったのかに加えて、采配の背景のフィロソフィーをもっとクローズアップしてほしいと思います。
**
POSシステムというコンビニに多く導入されている販売管理システムは、統計結果を鵜呑みにして次回発注するためにあるわけではありません。
統計はむしろ、仮説と検証の結果発注した商品がどれだけ売れたかを判断するため、つまり検証結果の妥当性を見極めるために使用しているとセブンイレブンの鈴木敏文会長は言っています。
ある日におにぎりがたくさん売れたからといって次にまたおにぎりがたくさん売れるかどうかは分からない。おにぎりが売れた理由を仮説によって導き出し、その仮説が再現性があるものであればまた発注する。そしてPOSからの統計結果を見て結果を検証して次のサイクルにつなげる。
これが仮説と検証のサイクルです。
野球でもコンビニでも、もちろんサッカーでもフレームは全て同じです。
**
野球は1つ1つのプレーを切り取って検証することができるので、データがより通用する世界ではないかと思います。勘ピューターではなく、やはりデータ野球、ID野球が成功してほしいと僕は思います。

