U22日本代表が北京五輪出場を決めました!
現地観戦してきたのですが、本当に感動しました。最後の反町監督の「北京に行けます!」のときのサポーターの大歓声はうねりのような異空間を生み出し、その異空間に内包されている自分をとてもうれしく思いました。
1つの達成感と、そこから始まる明確な目標の共有感。北京をキーワードに生み出された狂騒の余韻が今も身体に染み込まれています。
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ドーハで味わった敗北はチームを1つにしました。
あの試合は1-1になった後、チーム内で意識の共有が図られていなかったといいます。勝ちにいくんだと思っていた選手、引き分けでOKと思っていた選手、バラバラでした。
リーグ戦において引き分けを狙うことは決して間違ったことではありません。戦略として引き分けを狙うこと自体は至極ありきたりのものです。ただし、戦略に向かうベクトルがチーム内でバラバラであるとそこに綻びが生じます。
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サッカーは1人でどうにかできるスポーツではないので、必ず連携が必要になります。
連携のミソは「呼吸」であり、そこには意思が介在します。この意思がかみ合わないと当然連携は生まれません。
意思の統一、目的の共有、つまりシンクロニシティがそこにあるかどうかがチーム力の強化の肝の1つであると僕は思います。
1度敗北を味わったこと、下手な星勘定をせずとも引き分け以上で北京という明確な指標が生まれたこと、チームとして1つになろうと全員が思えたことが、チーム全体としての推進力につながったのでは試合を観戦していて感じました。
また、厚かましいですがチームとしてのシンクロニシティが国立競技場全体を覆い、自分もその中に含まれている感覚を味わいました。こういった一体感を経験させてくれるサッカーというスポーツは一生僕を虜にするのだろうと思います。
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「絶対に勝ちに行くんだ」「勝って北京に行くんだ」
こういった熱さと同居していた現実的な戦い方も見逃せません。
仮に、勝たなければ北京に行けない、という状況であれば3-5-2のあの布陣はありえないでしょう。布陣からもスタメンからも守備的であることが明らかです。
気持ちは「勝つ」。
ただし現実的な状況も忘れない。
この撞着的なバランスにおいてもまたシンクロニシティが垣間見えました。
シンクロニシティが見えたチームは強い。個として全体、全体として個であり、そこに無駄がありません。
ゴムを噛んでいるような歯がゆさも感じたこともありましたが、「引き分け以上」に向かって全体が1つになれた、そんな試合でした。
北京では大きなアウェー感を味わうと思いますが、それをバネにしてがんばってもらいたいですね。
Simple is best.
どんなに複雑なことも本質を追求すれば単純な図式になり、一本線で結ばれます。
しかし、現実的には単純に解決できることは少なく、物事には常に複雑さが内包しています。
○○ほど単純で○○ほど難しいものはない、という言葉をたまに聞くことがありますが、これは本質的には単純なことも実際的には難しく捉えなければ解決できないということが示されています。
例えば、サッカーほど単純でサッカーほど難しいものはない、といった場合。
ボールを相手ゴールに入れれば得点。
失点より得点が多ければ勝ち。
これだけ聞けば至極単純です。
ところが実際には点を取るという作業は非常に困難であり、失点をしないという作業も同様に困難です。このやり方に従えば必ず得点できるという方法は存在せず、刻々と変化する局面を常に把握し、得点に近づくことができるプレーを続ける中でチャンスを模索するしかありません。
ではなぜここまで物事が複雑になってしまうか。
それは外部環境というものが存在するためだと思います。
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海岸線のメタファーという例えがあります。
蟻に海岸線を歩かせると、かなりジグザグに進みます。
しかしこれは蟻の生来の姿を具現化したものではありません。
ジグザグに進むのは海岸線の起伏や水たまりの存在など外部環境によるものであり、蟻は生来まっすぐ進む性質を備えているのです。
本質は単純であるのに、環境によって行動や意思決定が複雑化してしまうことがこのメタファーから伺えます。
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これらは、意思決定の複雑さにも拍車をかけています。
意思決定には事実前提と価値前提が存在するといわれています。価値前提の存在だけで既に「価値観」という各自固有の前提が含まれているため複雑であるのに、事実前提としての外部環境も常に変化し続けるのですから、その複雑たるや想像を絶するものになります。
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価値前提に関しては、論理性というものが通用しない世界でもあります。
例えばこんな実験があります。
AさんとBさんの2人がいます。
Aさんに1000円渡し、このうちのいくらかをBさんにあげるように指示します。
Bさんがそれを受け取ったら残りの額はAさんのもの、Bさんが受け取りを拒否したらAさんは全額没収されます。
BさんはAさんが提示した額を受け取ればその額がBさんのもの、拒否すれば1円ももらえません。
このルールでAさんはいくらBさんに渡すとよいでしょう?
論理的に考えると、Aさんは1円Bさんにあげればよいことになります。
Bさんに金額の決定権はなく、Bさんがお金をもらうにはAさんの提示に従うしかありません。
Bさんとしては1円でももらえれば得になるわけですから、古典派の経済学が扱う合理的経済人であれば1円でも受け取りは拒否しないと考えられます。
ところが実際に1円渡されたらどうでしょう?
僕がBさんでも間違いなく受け取りは拒否すると思います。Aさんとは一生会わないから遺恨などは関係ないと言われても、きっと受け取りは拒否するでしょう。
ここには公平性や見栄などが含まれており、この感覚は論理では決して斬ることができません。
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価値前提が感覚の世界であれば、事実前提はその名の通り事実の世界です。
事実がばら撒かれた「環境」という存在はとても複雑でちょっとした事象がバタフライ効果で大きくぶれますが、限定合理や断面としての価値優位性を考えれば科学することは可能です。
いかに事実を分化・統合・整理して意思決定を少しでも「正しさ」に近づけるか、が本質の追求への第一歩になるのだと思います。
ここら辺の行動と意思決定の話しは複雑すぎてとても手に負えない世界でもありますが、少しでも体系的な理解に近づきたいものです。
