キリンカップのコロンビア戦を現地観戦したのですが、試合の感想を書くには日が経ちすぎてしまいました。

そこで今日は、最近翻したように噴出してきた「オシムで大丈夫なの?」論について僕の意見を書きたいと思います。
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正直、オシムには賞賛の声が多いです。期待値の部分もあると思います。まだアジアカップも戦っていないし、ワールドカップの予選も始まっていない。これまでの日本代表の戦績だけからでは確かに賞賛するに値するようなことはやっていません。
いくらなんでも全員がオシム賞賛ではまずいだろう、ということで、さすがはマスコミ。今度は「オシムで大丈夫なのか?」と疑問を投げかけてきました。
この「オシムで大丈夫なの?」論はやはり必要なものだと思います。手放しに賞賛するのは危険ですし、期待値だけが高まるとドイツワールドカップのようなことになってしまうかもしれません。
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僕は、オシム賞賛派です。
それは、根底にフィロソフィーがあるからです。オシムは徹底的に物事の本質を追求し、個別の事象に意味を求めます。
なぜそこでパスを出したのか。
なぜそこに走ったのか。
なぜシュートをうったのか。
サッカーは複雑で、局面で常に変化するスポーツです。絶対的に有効な戦略や戦術は存在せず、的確な状況判断で流れを読み取り、常に変化し続ける局面を斬り続けなければなりません。
個別の意味・意図の集合が全体としてのハーモニーとなります。個と全の融合がそこに必要であり、そのためには個が際立ってもダメだし、全ばかりを追求しても成立しません。
僕は、そのバランスを追求するフィロソフィーがオシムに備わっていると思うのです。
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トルシエは、ある意味確固たるフィロソフィーを持っていました。
彼は日本人の特性もよく理解しており、中盤で人数をかけて囲い込む守備は、日本人の1対1の守備力が劣っていることをよく見抜いていた結果生まれたものだと思います。
また、常に自らの首を意識しており、リスクを犯して1-4で負けるよりは、0-1で負けた方がマスコミにも叩かれにくいということを理解し、常に守備ありきのサッカーを進めていたと思います。
そういった意味でフィロソフィーはありましたが、あまりに全に固執しすぎていました。システムありきで人をあてはめるそのやり方は、はまれば効果を発揮しますが、はまらなければ打開策が見つからない状態に陥ります。
攻撃に関しては特にそのジレンマを抱えていて、組織的に戦いたいけど個に頼らざるを得ないサッカーであり、個も連動性のある攻撃というよりは本当に個の力に頼った攻撃になっていました。中田英寿に頼らざるを得ない攻撃は、98年から少しも成長していないようにも見えました。
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ジーコは、トルシエ時代の反動もあってか個を大切にしましたが、そこにフィロソフィーがあまり感じられませんでした。
攻撃は連動性を大切にしていましたが、個の力に頼った攻撃であり、欧州組という言葉まで生まれてしまいました。3-5-2と4-4-2の使い分けの意図も最後までよく分からず、また、レギュラーとサブの境目が明確になっていましたのでチームとしては内部崩壊していたのではないかと思います。
要素還元主義はサッカーには当てはまらないよい例になったのではないでしょうか。
典型的なブラジル人の監督だな、という印象で、ジーコのやり方は日本人にはちょっと厳しかったのかもしれません。
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組織ありきなのか、人ありきなのか。
それがトルシエとジーコは両極端だったのだと思います。
組織を固定軸として組織に必要な人を集めるコンピテンシー・モデル論と、人を固定軸としてその人の個性を活かすパーソナル・コアコンピタンス論。2人が追い求めたのはこの両極端の施策でした。
やはり、組織と人は両極端ではありません。個として全体、全体として個なのです。
僕がオシムのことを信頼しているのは、フィロソフィーのもとにこの本質を追求しているのが見えるからです。
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「私は日本サッカーを日本化することを試みる」
オシムの代表監督就任会見でのコメントです。ブラジルにはブラジルのサッカー、イタリアにはイタリアのサッカー、そして日本には日本のサッカーがあるはずです。それを追い求めて欲しいし、僕も一サポーターとしてそれを見守り、応援したいと思います。
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